カテゴリ:Video ARTicle

松本俊夫 時代の碑から構造の問題へ

映像作家 松本俊夫 時代の碑から構造の問題へ
聞き手 瀬島久美子
企画・構成 戸田久美子・瀧健太郎
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2005年3月にファイドロス・カフェにてビデオアート・ショーイングのイベントとして日本の実験映像の草分けである松本俊夫氏の特集を行いました。今回は68年から80年代にいたるまでの松本氏の作品の上映と、キュレーターの瀬島久美子さんとの対談と行い、その様子の一部を掲載致します。前半はフィルム作品「つぶれかかった右眼のために」(1968)、「色即是空」(1975)、「アートマン」(1975)、「エニグマ」(1978)が上映され、後半は80年代以降のビデオアート作品が紹介されました。以下は前半終了後の対談です。

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時代の記念碑としての作品を!

瀬島:初期作品である 1968 年作の「つぶれかかった右眼のために」、この作品は様々な意味でこの時代を反映していると思われます。この作品についてお話いただけますでしょうか。

松本:そうですね、このときはやはり時代が変化しているわけです。今流に言えば、パラダイム・チェンジが急降しており、矛盾がいっぱいいろんな形で現れてきて。「この 68年という時代はきっと将来一つの大きな変わり目の記念碑的な年になるに違いない」と思って、とにかく時代を何かの形で表現しておこうと、記録しておこうと思いました。
 ところが映画・映像っていうのは縦軸に、線的に表現するメディアじゃないですか。やっぱりそれでは、どうも表現しきれないという感じがしました。いろんな物が混沌として渦を巻き、お互いに関連しあったり、あるいは無関係に対立しあったりというような、輻輳的、流動的そして多元的イメージといったある状態の中に翻弄されているような体験、その体感みたいなもの、そういうものを表現したかったのです。


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 その時にふと気がついたのは、例えば新聞をパっと広げるといろんな見出しが一度に目に飛び込んできます。政治の問題もあれば、社会、様々な異なる人間の 情報が一挙に目に飛び込んできて、「世の中すごく騒然・混沌としてる」といったような印象を受けました。あれに近い感じで、一番目はこれ、二番目はこれ、 三番目はこれというふうに順序をつけてニュース解説にみたいに聞いていくのとは違い、その体感のリアリティみたいなものをどういうふうに表現できるかと 思ったときに、初めてマルチ・プロジェクション、つまり2台以上のプロジェクターによる-これはそれ以前なかったのですが-複数の映像の相互関係でモノを 表現するという形式を思い立ったのです。

 日本では、それこそ 70 年の万博から始まったように言われていますが、 68 年の草月のアートセンターが主催した大きな催しがありまして、実際にはそこで「つぶれかかった右眼のために」を上演したのが初めてだったんですね。

瀬島:「草月の大きなイベント」というのは「なにかいってくれ、いまさがす」ですね?

松本: そうそう、6日間ぐらいに渡っていろんなものをやったんですね。今見るとマルチ・プロジェクションなんて別にそれほど珍しくないと思うけれども、この当時 はその表現形式自体が「映画のようでもあり」、「映画のようでない」というような非常に異様な印象を与えたのだと思います。

 実際には3台(のプロジェクター)でやっていて、 シンクロナス・モーターでもって、これをピシャッと合せるように、最初に上演した時のように画面上で構成したものを今日は皆さんにお見せしたのです。 実際には、最後にストップ・モーションがあって、-今日の上映ではそのままでしたが-、草月でやったときは舞台の袖に7つ、大きな写真のフラッシュを繋い でいまして、スイッチを押すとドーンとフラッシュが閃光を放って、ものすごい煙を上げました。時代が時代だったんでテロリストが爆弾を投げ込んだみたいな ね、会場が騒然となったのです。一転、混沌とする状態をスクリーンの外にまで巻き起こすという、あらゆる意味でパフォーマンス性を含んだ表現だったので す。
 ですから残念ながら今日の上映ではスクリーン上だけで完結してしまっているわけですね。


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「つぶれかかった右眼のために」(1968)


瀬島: 1968 年の草月会館で開催された「なにかいってくれ、いまさがす」(*)っていうタイトルのイベントがあったんですが、もう私にとっては非常にショッキングなイベントのシリーズでした。

  「なにかいってくれ、いまさがす」っていうのはたまたま「ゴドーを待ちながら」(サミュエル・ベケット著) という戯曲の中に入っていた単語をパっと拾ってタイトルにされたのですが、いま松本さんがお話されたように 68年というのは、かなり混沌とした時代で、今の時代もよく似ているのではないかと思いました。私は最近、万国博覧会の仕事をしていたので、そういう共通 性を感じました。ちょうどその 70年のときには、安保闘争もありまして、一方では博覧会のお祭り騒ぎもあり、今で言えば、イラクでまだ戦争が終結していないのに、一方ではまた博覧会を やっているという様な。こういう収拾がつくような、つかないようなといった状況というのが、(70年万博から)35年の時をおいて共通しているな、と思い ます。

(*)「なにかいってくれ、いまさがす」1968年に草月会館で行われた山口勝弘・東野芳明によるシンポジウム。日本初のビデオ・イベントと言われる

松本:その時代というのは、いろんな多次元的な現象が一点透視型といった遠近法の感触という中におさまらず、いろんな形でねじまがって時空間が解体再構成されるようなところがありまして、それをどう表現するかっていう点で随分いろんな問題が出てきたんですね。

  僕自身はちょうど 68年からビデオアートを始めたんですが、その前から実験をやって、ちょうど 69年に発表した劇映画の「バラの葬列」-御覧になっている方がいるかどうか-、その映画を見ると現実のレベルと虚構のレベルであるとか、現在とか過去、 想念とかという次元的なものが、非常に断片的なコラージュによって立体派の絵をみているような映画になっているわけです。

  ある意味では表現の形式の実験みたいに見えるけれども、その時代のある種の存在感をどう形にするか、そういう問題としていろんな手探りをやっていた時代だったのです。

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「アートマン」(1975)



オタク化する時代と近代性を超越する実験を目指して

瀬島: ちょうどこの70年の大騒ぎが終わったあとに、松本さんが渋谷のパルコで映像個展なさったのが75年だったと思うんです。その頃、渋谷の西武劇場ができ て、そこは青山界隈の最先端のアートが紹介されるという場所だったのです。そこで映像個展をなさって、その頃の作品が「色即是空」「アートマン」ですね。 それらがそこで発表されて、そのあとに「エニグマ」が草月で…。

松本: ですから、その辺りに端的に見えているのは、70年を境に一度時代が変わっていくわけです。大きな、世界中が共通したいろんな学園紛争だ、何だと、ものす ごく動いた時代だったけれども、それが様々な意味でゆき詰って、挫折する。その中で内向的になっていくわけです。いろんな意味でもう一度、原点にじっくり オモリを降ろして、内側からもう一回見つめなおそうという時代になってくる。

 で、その一方の極ではオタク化が始まるわけです。もちろん僕はオタクではなくて、その内面化ってものを、その60年代の中でもどうも自覚していたよう な…、「西洋近代の文化的なパラダイムをどう越えていくか」、それが大きなテーマだったんです。その意味では、東洋の思想とか精神世界っていうものに内面 的にもっと入り込んで、西洋のアヴァン・ギャルドと東洋的な趣向とか精神世界というものとを、もっとぶつけ合わせあるいは融合させるという方向に入って いった時期の作品が「色即是空」や「アートマン」です。

瀬島:西洋的なものと日本的なものとをどうするかというのが、2005年の愛知万博での私の大きな本当のテーマでもありました。そ れがうまくいったかどうかというのは、これから多分評価がでるのでしょうが、今松本さんがおっしゃったようなことというのは多分、美術家や音楽家や表現に 携わる人っていうのは皆が多分、共通に持つ問題だろうと思います。

  この問題については、「近代の超克」(*)という本がありまして、皆さんもちょっと読んでみるといいと思います。私たちが同じ問題を戦後ずっと抱えている ことが、とてもよく分かると思います。それを抱えていて、では個人個人で解決できたのか、それとも全体として、まだ解決できていないのか、皆がそれをどう いうふうに問題視しているのか、いろんな人の視点が見えてくるものなのですが、それを読むと今の自分の問題とほぼ同じようなことが書いてあるんですね。そ ういう問題を常にずっと松本さんが作品化され、それを私もそのまま受け継ぎ、多分皆さんも似たような問題を抱えながら作品を作っていたりなさるんじゃない かなと思います。

(*)「近代の超克」(冨山房百科文庫23/1979年発刊。1942年、雑誌「文学界」の特集として組まれた座談会を軸に、 亀井勝一郎、西谷啓治、諸井三郎、吉満義彦、林房雄、下村寅太郎、津村秀夫、三好達治、菊池正士、中村光夫、河上徹太郎、竹内好の論文を加えて出版された。

  今のお話にあったように一方ではオタク化して、また一方で非常に内向化してくるのですが、その後にいわゆるニュー・アカデミズムっていわれる様な人々がい ろんな哲学的な問題を持ち出してくるわけです。その時私なんかが良く分からないなと思っていたのが、いわゆる構造主義的なもので、また言葉を使わずに構造 主義というものが、こんな表現ができるのかと思ってビックリしたのが、今から見ていただく松本さんの「コネクション」などの作品群です。これがまた「そう いうことか」という感じがするのです。

<その2へ続く>

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松本俊夫 Toshio Matsumoto
1932年名古屋市生れ。東京大学文学部美学美術史学科卒業。新理研映画KK社で16ミリの記録映画『潜凾』('56)を初演出。退社後「記録映画」を創刊、月刊誌「映画批評」の編集委員など映画理論家として活動を行う。
  記録映画として『安保条約』('59)、『西陣』('61)、『石の詩』('63)、等を手がけ、68年頃から実験映画と、69年の 劇映画『薔薇の葬列』をはじめ修羅』('71)、『ドグラ・マグラ』('88)などを演出。70年大阪万博では「スペース・プロジェクション・アコ」、 『メタスタシス=新陳代謝』('71)、『アートマン』('75)、『気 Breathing』('80)などの斬新な映画作品と80年代はビデオを使っ た実験的なパフォーマンスなども行う。
 著書に『映像の発見』、『映像の探求』(三一書房)、『幻視の美学』(フィルムアート社)など。

瀬島久美子Kumiko Sejima
  1979年より音・映像をベースとしたアート&デザインの企画、制作を手がける。1988-92年都市計画、商業地形成事業、商業コンサルタント事業にも 参画。「サウンド・オブジェ展」、日本建築学会100周年記念「建築と映像イメージ」展、「ビデオアートの25年-草創期から現在まで」、「インスタレー ション認知構造'01-'02」「インタラクティヴ・インスタレーション-Endsville」また2005年愛地球博 瀬戸日本館ギャラリーのキュー レーションを手がける